日本経済新聞 本日(3/29)付け 32面 の小さな記事で、宮崎駿監督の思いを読んだ。
『僕らは 映画を作り続ける。 映画が多くの人に、何かの形で 心の支えになって
くれたらうれしい。』
宮崎駿監督は28日、スタジオジブリの新作(「コクリコ坂から」7月16日公開)の
主題歌発表会見で、東日本対震災で被災した人々への思いを語った。
「今も埋葬出来ないまま、がれきに埋もれた多くの人を抱える国で、原子力発電所の
事故で国土の一部を失いつつある事態のなかで、アニメーションを作っている自覚を
持っている。」
言葉は時折涙で途切れた。
「私たちの島は 繰り返し 地震と 火山と 台風と 津波に襲われてきた。 それでも
もう一度、より 美しくする努力をする甲斐のある島。絶望する必要はない。」
「今は 高所から文明論を語るより、死者を悼みたい」
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これは あくまでも 私の「私見」だが、宮崎駿監督が早くから 「人類」と「放射能」との闘いを予見し、アニメーション作品の「風の谷のナウシカ」を制作・発表した、と 作品を観た時から「確信」していた。
映像に出てくる「腐海」(ふかい)、そこに育つ「植物」の胞子は、村人を襲う。
巨大化した、昆虫(?)は人間の身勝手な振る舞いに怒り、反撃を始める。
放射能を帯びた「物質」の、その放射能の【半減期】が、その種類によっては、僅か
数日から、数十万年の単位に及ぶと聞いた。
今後の原子力エネルギー依存の社会基盤や政策の有無に関係なく、既に 日本は
「放射能列島」なのだ。
科学技術に依拠した神をも恐れぬ「独善」の日本国の産業政策は、ここで 手痛い
ひっぺ返しを受けた。
誰からか? 勿論 「自然の摂理」からである。
だが 国の政策も、世界に「冠」たる「原子力技術」を持つと自負していた「電力会社」にも私は その責任を問う必要を感じない。それなりに「精一杯」努力してきた事を認める。
ただ野放図に エネルギーや資源を使い放題使い、環境を汚しても 何の痛痒を
感じないで過ごしてきた「我々・庶民」に第一位の責任があると思っている。
それに乗っかった事業展開であった。より安いコストで「発電」出来ると判断したのだろう。 結果は 恐ろしい事になった。
ただ 「産業立国」の御旗の元、企業・個人もエネルギーを 使いたいだけ使う思想は
限度があった事に気づいた事は、不幸中の幸いか?
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宮崎 駿監督は 「詩人」でもある。 それは この人の「作品群」で分かる。
この詩人は 「それでも もう一度、より美しくする努力をする甲斐のある島」という。
現実には もう「人」の住めない土地が 出現した。 また その「候補地」もある。
この狭い国土で、半永久的に耕作も、育児も、酪農も、拒否する地域が生まれた。
四季の色彩あふれる国、 相手の気持ちを忖度(そんたく)し、対応できる人々。
努力と改善に飽きる事のない人々。 自己の鍛練と「知」への飽くない欲求。
生き残った我々のすべきことは、 多くの無念を飲みながら無くなった方々への哀悼を
よりよい「社会」構築へと 決意に変えなければならないのではないか!
一歩一歩、そして 粘り強く!
そう 「道」は 我々が造る。
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