この記事は、河北新報11年9月3日付け<地球人間模様>から
伝えたい同胞の痛み
亡父の思い胸に 広島へ赴任
今年の8月5日、広島市の平和公園で営まれた第42回韓国人原爆犠牲者慰霊祭に出席した 「辛 亨根」広島韓国総領事(57)は、広島で被爆し、韓国人被爆者の援護に その障害を捧げた父、故辛 泳洙(1919~99没)の
人生を振り返りながら、自らの決意を語った。
辛泳洙は、韓国が日本の「植民地」時代の1941年に、日韓合弁会社の
製薬会社、東栄製薬に就職。 翌年希望して同製薬の姉妹会社である、広島の日興製薬に移った。
辛は、45年8月6日、 広島市<幟町>の電停で電車を待っていた時に被爆したが、危うく命は助かった。
戦後 辛は、韓国に戻り、生活し結婚もした。
67年7月に現在の韓国原爆被害者協会の前身である、韓国原爆被害者援護協会が結成され、同年11月には、韓国人被爆者約20名が ソウルの日本
大使館前で 補償要求デモを行った。
辛一家は ソウルに引っ越し、旅館を営んでいたが、辛が70年9月に協会の3代目の会長に就任して、「運動」に打ち込むようになってからは生活は次第に厳しくなった。
辛は家族に 被爆当時の話や 治療での苦労、どのように苦闘して帰国した
のかとかいうことをほとんど話さなかった。
子供たちには「個人的な栄達や私利私欲のために人生を送るな」と語った。
息子の 辛亨根は韓国外国語大学の「日本語学科」に入学するが、外交官の道に進みたくて試験を受け直し、73年に同大の政治外交学科へ入学し
直した。
外交官試験に合格すると 父の辛泳洙は「他人の為になる仕事だ」と喜んだ。
辛泳洙は74年、ケロイド治療の為に来日し、同年7月、韓国人被爆者として
最初の「被爆者手帳」を受け取った。
しかし、「父は被爆者手帳を貰ったには意味のあることだが、教会の会員たちに、実質的に『恩恵を及ぼす事は』何もなく、申し訳ないと思っていた」という。
辛亨根は外交官の道を歩み、デンマーク、中国で勤務し 今年3月に父が
被爆した広島に赴任してきた。
今年7月 辛亨根は、広島市の原爆資料館で始まった「企画展」(生きる)に父の被爆者手帳や日記を提供した。
「父の遺品」の公開が、被爆したのは日本人だけでなく、日本には被害者と
(植民地支配という)加害者の二つの側面もあることを 観る人に分かって
もらえれば」と述べた。
「父が被爆した広島に赴任出来た事は、私にとって大きな意味がある。
核兵器・世界平和・被爆者問題・日韓関係など、父と関連した問題を現実的に
進展出来ればと考えている」と語った。
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一体 お隣の韓国と仲良く出来ない理由は無いのではないか?
かっての日本の「軍国主義」的時代ならば、攻め込んで、略奪して当たり前の
論理を裏付けるために、架空の民族間の「優劣」を論じ、日本人の頭を「他国への侵略は当然」と ナチスのユダヤ民族に対すると同じように洗脳する必要があった。
しかし 古代の時代から、長い間 中国の高度な文化・芸術の日本への橋渡し役を担った伝道者は、まぎれもなく朝鮮半島に在住する人々であった。
なぜなら 遣隋使・遣唐使の海の単線にすぎない危険なルートよりも、陸路の幅広い文明の波及ルートとその影響力の方が、はるかに広範な文物を
日本国に伝える事が出来ていた筈であるから。
したがって 大和朝廷でさえ、朝鮮半島に在住する民族への「尊敬・憧憬」は大なるものであっただろう。
多分 この「仮説」は、こういう分野の『学会』があれば、既に「定説」になっているに違いない。
明治の時代に、日本が僅かに早く、アジアの諸国の中で 軍隊の近代化が為され、当時の欧米の「植民地政策」に対抗出来たが為、却って本来の近隣
諸国への尊重・友誼はないがしろにされた。
今の時代、かってのような 捻じ曲げられた民族意識が必要だろうか?
同じ アジアの近隣の人間同士として、競い合う事と、助け合う事は同時に
可能だろう。
よきライバルは、よき友人である。
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