矢崎節夫氏の「致知随想」 より抜粋 『致知』2010年4月号
(矢崎氏は金子みすず記念館館長・童謡詩人)
朝やけ小焼けだ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ.
浜は祭りの
ようだけど
海の中では
何万の
鰮のとむらい
するだろう。 金子みすず作
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この「詩」は、実は何年も前に読んでいて、金子みすずの「生命」の平等をうたう
心に深く感動した。
今回、3月11日の大震災後に読んだ、「致知出版社」の『人間力メルマガ』の案内に掲載された「遺された五百十二篇の詩」というタイトルの文章にあったもの。
この詩の説明文では
<浜の喜びの一方で、目に見えない海の悲しみがある>と注釈されていた。
もっともな 解釈と説明である。
しかし、今、この時点の日本の状況では、
<浜の悲しみの一方で、目に見えない海の悲しみもある>と言えないか?
太平洋沿岸の多くの「漁港」では、想像もできない「大津波」の襲来を受けた。
そして
浜の人は まだ発見出来ていない 多くの「遺体」は 海の中だと考えられている事。
魚類とっては 漁村の復興により やはり 目には見えない海の悲しみが始まるのだ。
「自覚」ある生命体である人間は、他の生命体(=動物・魚類・穀物・野菜など)を
食する時、その命を戴くという行為に、どの位 価値や深みを考えているだろうか?
私は 自分の毎食事の時に言う「戴きます!」の言葉の軽さに、反省をした。
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