日経 10-05-09付け 「美の美」欄・・・・・千 利休(宗易)の特集より
近代の民芸運動を唱道した 柳 宗悦が 高麗茶碗に賛辞を送った事はよく知られている。
「坦坦として波瀾の無いもの、たくらみの無いもの、邪気のないもの、素直なもの、自然なもの、無心なもの、奢らないもの、誇らないもの、それが美しくなくて何であろうか」 (茶と美)
美術評論家の林屋 清三氏は言う。
利休の茶碗の第一義は 無作為、作為の行き着いた先の無作為です。
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当日の「日経」に掲載されていた 生前の「千 利休」を写したといわれる 長谷川等伯の
く現存唯一>の利休像を見ると 眼もとの大きな きかん坊の目つきの利休がいる。
なるほど 単なる「道具」に 新しい価値基準を見出した男は 相当の信念と覚悟を持つた男と見える。
だが 今回のブログでとり上げたいのは、柳 宗悦の言葉のほうだ。
邪気のないもの 無心なもの たくらみの無いもの などだけを見れば、まるで
「赤ん坊」をさしているようだが、「奢らないもの」等を勘案すると、単純に「赤ん坊」の心境をさしている訳でもない。
人が 願い 渇望し 幾多の苦渋の試練を乗り越えた者しか到達しえない「境地」がここにある」と思わされた。 尋常な人間では この「美しさ」はつかみきれないのであろう。
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