友人・知人そして読者の皆様 明けましておめでとう御座います。
今年は 経済環境が厳しかろうと より主体的に 明るく 前向きな社会生活を送りたいと、
考え、決意した次第です。
元朝参りは 止めました。 これは 以前このブログでも書いた記憶がありますが、
「自分の願い」だけを祈るのは、私には「 どこか無理がある」としか思えないからです。
子供時代から 親に連れられて東京・代々木にある「明治神宮」の元朝参りにも、何度か参拝し その度に ものすごい数の参拝者に押されながら 参道を歩いたが、その参拝の行為そのものは いやではなかった。
しかし そのすざましい人数にあっけにとられて、参拝の行為そのものには あまり重視することなく年月を経過ししてきた。
ここ3~4年前の正月 竹駒神社に参拝している時に フッと気づいた。
これだけの人数の人の願いを、その上 一人の人が幾つもの願いをするのを、いくら神様でも叶えられる訳が無い!とその人数の多さから判断し 確信した。
身勝手な、極く 個人主義的な願いを 神様が引き受ける責任や義務があるのだろうか?
お願いが出来るだけの「善行」を積んだ人々は、それだけで価値が在る。
少なくとも、親が子を想い、子は親の幸福を願う事は美しい。病気の我が身を反省し、回復を
祈るのも、納得出来る。 青年が、スポーツ競技で、今までにない厳しい練習に耐えられるよう祈り・決意する事は 清々しい。 派遣切りに遭った人が、その再就職を願うのは当然だ。
むしろ お賽銭の多寡に関わらず、何としても 神仏の力を持って その方々を就職させて頂きたいと 私も お願いしたい。
この範疇では無くて、ひたすら 我が身の金儲け、他人をけ落とし、利用しようと願うのであれば、お門違いも はなはだしい。
例えば 私が神様で在れば 真実のこもった、自分以外の人に対する温かい想い・願いだけ、そんな願いだけを聞き届けると思う。
そこで 私は昨今「神仏に感謝の礼はするが、願うのは 自己を離れて人の為」と決めた。
自分の願いは、自分の「想い」と「努力」で掴むものと考える。神仏に頼るのも、有力者にすがるのも 共に心理的に、精神的に「自立」出来ていない人間の考える事のように思える。
まだ私は 考えられる、工夫出来る、働ける。
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