たくさんの 個別人身・経済事件の容疑者のふてぶてしさ、自己中心主義の考え方、法に触れなければ、否 見つからなければ「万事OK」の態度は、我々まっとうな一般庶民の感覚からしたら、相当にずれがある!
膨大な数の「刑事」・「民事」事件は、日々発生し、被疑者を訴える人にさえ、信用が置けない時代背景の中、弁護側・検事側は それぞれ複雑な状況を整理・分類し、かつ容疑・動機・処罰の程度を勘案しながら 立場は180度違うが、各々の仕事として取り組んでいる。
弁護士側は、巨大な事件程、その勝利による「報酬」は大きい。 (名誉も収入も)
一方、検察側は、大きな事件でも、小さな事件でも、そして検察求刑通りになったとしても、
彼らの「収入」に大差は付かない(筈である)。 将来の立身出世には影響はするだろうが。
上記の仕事現場における 矛盾をかかえながらも、事件の立証に懸命の努力を傾ける検事達に情け容赦もなく襲いかかる被疑者側からの「嘘」や「ごまかし」そして「悪態」。
生々しい取り調べの現場では、想像を絶する「心理戦」や「感情のせめぎ合い」をしている。
「法廷」の出る以前の 被疑者と検事の「証拠確定」の闘いは、悪辣な被疑者が多くなればなるほど、まっとうな、取り調べ方法では埒(ラチ)があかなくなる。
相当な<悪>には、相当な<脅かし>が必要になる! 当然の事だ。
「暴力団員」にやさしい言葉が 通じると思いますか? 人格の崩れた「あこぎ」な被疑者に 真っ当な取り調べが効くと思いますか?
「北朝鮮」や「中国」のやり方を見れば、現世の中での交渉は 相当したたかでないと馬鹿にされるだけなのが よく分かると思う。
資本主義の爛熟したこの時代、社会の「負」の現象を イヤというほど味あわされている
検事の「取り調べ方」が悪いのか、時代がその原因を作っているのか?
今回の「厚生労働省」の「証明書偽造事件」の村木厚子元局長さんの冤罪事件では、私は
当初「なんかおかしい?」と感じ、無罪判決に「やはり」と得心した体験を持つので、検察の捜査方法は「強引」過ぎると思いつつも、検事の側に立つとどんな思いになるか考えてみた。
腐敗した現象の多い現世で、本物の「正義」を貫く事は難しい。更に本物の「正義」を維持
しようと考える事さえ難しい事だ。
だから 少なくとも、「検事」だけに責任を取らせることは 思慮が不足していると断じたい。
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