成功者になろうとするのではなく、
価値ある人間になろうとしなさい。
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これは アルバート・アインシュタインが言ったという言葉。
今の世間の風潮とは 180度価値観が違っていると思う言葉だが、昔の日本人には当然の言葉であり 生き方であった。
私の老父が 生前よく話題にしていたのは、「ひと」の生き様。
あの人物は 「腹が出来ている」とか 「人物が大きい」とかの言葉を よく聞いた。
これは きっと 成功を目指すのではなくて、何かで価値がある人物になる事を目指している意味もあったのかも知れない。
もともと 父は在野で 曹洞宗の禅の修行を志した人なので、我が家にも 若い坊さんが来訪したり 鴨井の上には 鎌倉の<臨済宗・建長寺・菅原管長の「書」の一幅が飾ってあつたりしていた。
私は高校時代には 鎌倉に「座禅に行く」と言って、早春のまだ寒い鎌倉の山中で、一週間ほど 座りに行った。 この管長さんが 私の名前の「名付け親」のようだ。
出家をしないで妻帯し、在野で「禅」の修業をする人を「坊主」とは呼ばず「居士」という。
お寺で「修行」するばかりが、「仏教」を学ぶ道ではない。在野で 仏の道を学び、実践するのも社会では必要な事だ。
ちょうど 「宮沢 賢治」を考えれば分かり易い。
彼の場合は「日蓮宗の信者」だが、お寺に入って修行をする道を選らばず、むしろ 懸命に農民の為に農作指導をし、ともに涙を流し、その身を貧しい農民の為に献身した。
これが本物の「仏教徒」と思う。 後世の人も驚く 大きな「宇宙観」を持ち、人への優しさにあふれる、偉大な人物だ。
我が家の子供がまだ小さい時、宮沢賢治童話全集を買って、子供らが寝る前に、ベットの脇で 読み聞かせ ほとんど全部読み切った。
この童話の中に、「グスコーブドリの伝記」が、自分の身を犠牲にして 町を守る物語だったので、思わず 読んでいる私自身が声を詰まらせ、泣いたことがある。
子供達の面前で、泣いたのは たぶんこの時だけだが、お話の内容を説明し、分かってもらったが、これは何か誇れる涙だったと 今でも思っている。
高校卒業時 就職の面接で 面接者から「誰があなたの尊敬できる有名人ですか?」と
聞かれたら、すぐ答えられるように 「雨ニモマケズ」を暗唱しようとしたんだっけ。
思えば かなり 私自身が子供時代から「賢治」に傾倒していた事が分かってきた。
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