今より 若干若い頃(99年ごろ)に書いたと思うメモが、偶然、古い書類を探していて、
本日みっかった。
「今度、生まれ変わったとしても やっぱり 私を産んでくれた両親の元に生まれたい!
そして、その場合は 早く稼いで 自立して 親孝行のまねをしたい。」と書いてある。
父母ともに 事情があつて どちらも再婚なのだが、高齢にもかかわらず私たちを産んでくれた。
思えば年老いた父母に心配と苦労を かけっ放しだった。
私が小学3年頃 「脚」が原因不明の病気になった時には、電車・バスを乗り継いで遠くの有名病院までコルセットをつけた私を「おんぶ」して通ってくれた母。 後で思えば 母は小柄なキャシャな身体だったのに、私自身は、自分の「体重」の事は、これっぽっちも考えていなかった。
学校を卒業して 数年で「組合活動」に熱中し、この面でも心配を掛け、その上 職場の
「山の会」に入っては、私には気付かない「山行き」の心配を掛けていた。
職場の許可を得て 「夜間大学」に通学したのはいいが、いつも寝不足で、お茶の水駅の階段で転んで怪我をし、また一層心配をかけた。
当時から 今に続く「妹」の病気の深刻さにも、その時点では気付かず、その苦しみを受け止める事もなかった。」と書いてある。 まさにその通り!!。
なんと 私は いつも変らぬ 自己中心の人間だろう!。
そのころ 父は、都内の渋谷区・中野区を地盤にして、「ローカル新聞」を発行していた。
地域限定新聞の発行には、記事を書き、写真を撮り、編集し、印刷屋で、校正し、広告の
作成から、集金まで たった一人でこなしていたのだ。
そんな仕事をする父は、なんと 子供の時から病気で片目を失っているのだ。
まさに”印刷物 発行”に最もそぐわない 隻眼の男が、その分野で奮闘し、死の直前の
75歳まで働き続けた。
まことに 父母の恩は 海よりも深く、山よりも高い。
「かなうなら また生まるるは 父母の元
優しき言葉 吾はかけたし」
父が脳溢血で亡くなったのは 昭和46年2月 享年75歳
母がその後を追うようにして亡くなったのは 昭和49年12月 享年74歳
歳月は 決して戻らず 悔恨の情も 決して間に合わないものだ。
5年程前から 就寝前に 布団の上で仏壇に向かい、両手を合わせ
「今日も 元気に過ごせました、お父さん、お母さん ありがとうございました」と挨拶しているが、これは 天上におられる父母への「供養」にはなっているかも知れないと、密かに考えている。 このような感謝の祈りが届く「霊」は 届かない「霊」よりは、天上での住み心地は
幾分でも良いのではないか?
オープンマインドに、生い立ち、お父様お母様、妹様のことなどたんたんと語っておられ、尊敬されていることが分かります。
こうありたいです。こうした輪廻が今の徳島さんのバックボーンになっているんだと、あらためて感じました。その「徳さん」こと徳の溢れる人柄はまさにご両親譲りなのですね。
投稿情報: msato | 2009年11 月 9日 (月) 10:13